───Una fragranza dolce a te───

城内のとある一室に大勢が集い、勤務を終えた者達が団欒を楽しんでいる。
その部屋には大きな食卓があり、城の住人は思い思いに寛いでいた。

 ラトレイアもその場に混じり、談笑したりしていたのだが。
ふと、会話の輪から離れ一人水を飲んでいたときのこと。
「…あら…?」
ラトレイアは何かを感じ小首を傾げた。

どこからか、仄かに香る余薫。
落ち着いて気品があり、そして、透明感のある洗練されたそれ。

その香気は繊細でありながらとても爽やかでシンプルなもの。
「この香りは一体どこから…?」
不思議に思いながらも、ラトレイアが清香の元が気になり、それは何処なのかを辿ろうと席を立ち振り向けば、そこにはデミテルがいた。

───Una fragranza dolce a te───

「…!」
ラトレイアは、背後に佇むデミテルに気付き、軽く息を呑んだ。
先程まで後ろには誰も居なかったのだが、いつから其処に居たのであろうか。全く気配が感じられ無かったのである。
「…?何か?」
振り向き様に驚かれ、怪訝そうな顔をして彼は訊ねた。
デミテルとしては、驚かれるようなことをしたつもりは全く無いため当然といえば当然な疑問である。
つい先程、任務を終えてこの場所に戻ってきたのだから。

そう、デミテルがラトレイアの背後に居たのは偶然の出来事だったのである。だが、彼女にとっては突然己の後方に現れたように思えたのだ。

「いえ、ただ…」
「ただ?」
何やら思案するかのような面持ちのまま語りだす彼女の言葉を待ち、続きを促すようにデミテルは問い掛ける。

すると、彼女の口から思いもよらない話が語られた。

「ただ…
いい香りがするな…と思って、振り向いたらデミテルが居てちょっと驚いただけなの」
ごめんなさい、とラトレイアは素直に謝罪を述べた。

「別に謝らなくても構いませんが…」
素直に謝られることに慣れていないデミテルは、彼女の言葉に多少むず痒くなったがそれは悟られないように取り繕う。そして
「私の香りが気になったのですか?」
彼はラトレイアをからかう様にニヤリと口角を少し上げ、彼女に顔を近づける。
デミテルとしては、普段から任務以外では自分の好む香りを纏っているのだが、彼女はそれに今まで全く気付かなかったようである。

 …まあ、職務で城を後にすることが多いデミテルとしては、残り香などに極力気を遣っていたため、ラトレイアがこの己の香りに気付いた事に関しては内心目を見張ったのだが。

「そう…ですね、いい香りだったので、どこからするのかなと気になったのは事実です。
でも、意外でした」
「どういう意味です」
意外と言われ、デミテルは腑に落ちないといったようにラトレイアの隣の席に腰を下ろす。
「任務で外出することが多いデミテルが、香りを纏っていたなんて」
「まあ、そうですね。己を特定させる香りは、はっきり言って責務に支障が出ますから。
私の場合は、しばらく任務がない時にしかつけませんけどね」
そう言って、デミテルはラトレイアの顔を眺めた。
「そうなのですか…。
あれ、でも…」
ラトレイアは少し思案すると、ふと疑問に思ったことが1つ脳裏をよぎる。それをそのまま彼に質問した。
「ジャミルはいつも甘い香りがするけど…」
──彼女は、任務に支障が出たりしないのかしら?

「…ああ、ジャミルは良いんですよ」
「何故?」
不可思議な話だと言わんばかりにラトレイアは小首を傾げれば、2人の背後に見知った薫りと共に1つの気配が現れる。

それは、服務の経過報告のため久々に帰館したジャミルであった。
「あら、珍しい。ラトレイアがデミテルと談笑してる」
同僚をからかうかのようにジャミルは声をかけると
「何をそんなに話し込んでいるの?」
と2人に問いかけ、ラトレイアを挟むように、デミテルとは反対側に腰かけた。

「今ね、香りの話をしていたの」
彼女の質問に答えるようにラトレイアはジャミルを見詰める。その言葉に驚いたジャミルは要約された言葉に付いて行けず、僅かに眉を顰める。そして一言。
「香り?」
鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をし、素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って話が掴めない」
困惑したジャミルは、もう少し詳しく知りたいとラトレイアを見やる。

「あ、ごめんなさい、要約しすぎましたね。
デミテルからいい匂いがしたので、ちょっとビックリしたと言うか。そこから、香りの話をしていたのです」
「へえ~…」
全くもって意外だとばかりにジャミルは己が同僚の顔を盗み見、そして目線をまたラトレイアに戻した。
「ジャミルはいつも甘い香りがするけど、任務に支障は出ないの?」
先程から気になっていたのであろう、彼女はデミテルに質問していた疑問を当人にぶつけたのだった。
「ジャミルは良いって、デミテルが言っていたのだけれど…」
とても興味深そうにラトレイアはジャミルの方へ顔を寄せると目を閉じ、仄かに香る、オリエンタルでいて甘い芳香を嗅いだ。

「ああ…デミテルが言うようにあたしはいいの。
むしろ、仕事がやりやすい」
彼女の珍しい行動に微笑んだあと、ジャミルは得意げな顔をし
「あたしは傀儡の術を使う時に役に立ってるから」
あ、安心して、あんたには傀儡の術は使わない
と、言葉尻を追えた。

「はあ…香りにも色々あるのですね」
感心したかのようにラトレイアは頷くと、更に思ったことを口に出す。
「ダオス様も、仄かに良い薫りがしますし」

眠れないときに、時々であるがラトレイアはダオスの寝所を訪れ、一夜を共に過ごす。
それは、ただ添い寝をしてもらうだけなのだが、その時に薫る芳しい森の香りに安堵感を覚えるのだった。

「ラトレイアだって、香水つけてるじゃない。瑞々しい花の香りがするし…」
「…?そうですか?
私、香水など持っていないのですけれど」
ジャミルの言葉に驚いたラトレイアは目を丸くし、怪訝そうに彼女を見やれば
「そうなんですか?私も、ジャミルと同じように感じていたのですが」
デミテルまでもが意外そうに声を上げた。

「デミテルまで…」
心底驚いたというようにラトレイアは瞠目した。
一体どうしたというのだろうか。自身は香水など身につけたことがないのに。

「ははーん、なるほど…」
ジャミルはしたり顔で呟けば、デミテルも察したのか「なるほどね…」と言葉を漏らした。

「え?」
「いーのいーの。こっちの話」
ジャミルの言動を不審に思いラトレイアが小首を傾げればジャミルはむべなるかなと頷き、デミテルはといえば何やら思案顔である。

「?」
2人の態度に、ラトレイアは皆目検討がつかず、首を傾げるばかりであった。

「彼女の香りは、残り香なのですかね…」
面白くないというようにデミテルは呟いた。

 今現在、団欒を終えそれぞれ自室に戻ったその後。何故だか己の部屋に居るジャミルが何か言いたげな風情でニヤニヤしている。

「…なんですか、気持ちの悪い」
「酷い言い草ね。このあたしに向かって気持ちの悪いだなんて」
そう言いつつも、デミテルをからかうかのように未だ表情を崩さずジャミルは同僚の様子を伺った。
「……」
未だに仏頂面なデミテルを見、盛大なため息をつけばジャミルは言葉を紡ぐ。
「そんなに気に入らないなら、間近に迫ったあの日に香水贈ってあげれば?」
ラトレイアに似合いそうな物をさ。

「…別に」
ジャミルの提案をそっけなくかわすとそっぽを向き、デミテルはそれきり口を閉ざしてしまった。
「あっそ。別に良いけど。
じゃああたしはもう戻るから」
…素直じゃないんだから…と思いながらも言葉には出さず、ジャミルは不憫な同僚に少し同情し、彼の部屋を後にするのだった。

 ──あ、そうだ…。我らが君主に一応報告しておくか…

同僚にああ言ったものの、からかい足りないジャミルは、ラトレイアが香水に興味を持っていることを復命とは別に、仮初めの主に注進に向かったのだった。

 世間が色めき立つ日。2の月14日。
アセリア全土はバレンタインデーを迎えていた。

バレンタインデー。元は、ある神を祭る祭日であったり、聖人の記念日であったりするのだが。
現在は、恋人や親しい人に日ごろの気持ちをこめて贈り物をする日であったり、女性が男性に贈り物と共に思いを告げる日になっている。

 ラトレイアはソーサリスに教わったこの日の行事の為に、厨房で焼き菓子を人数分調理していた。
甘いものが苦手な者が居るかもしれないのを考慮して、甘さを抑えた手作り菓子である。

「…出来た…!」
仕上がりは上々。

出来立ての菓子をそれぞれ小分けにし、ラッピングを施し手早く準備を済ませると部屋を出て、いつも世話になっている城の住人達と、己の従者であるヴァルローダに手渡していった。

 行く先々で喜ばれ、ラトレイアは『手作りにして良かった…』と心の底から思う。
驚かれたり、照れたり。反応は様々であったが、皆、彼女の心遣いに顔をほころばせ喜びを表してくれたのである。

「さて…と。最後は…」
皆に配っていた物とは別に作ったお菓子を持ち、日頃から何かと気にかけてくれるダオスの元へと向かっていった。

 複雑な構造の城内をひたすら歩き続け、城の中枢でもある彼の人…城主であるダオスの居室へと辿り着く。
普段であれば、ダオスガードの任に就いているイーヴルロードが、重厚な扉の前に佇み警護しているのだが、休憩時間だということで先程すれ違ったため今は居ない。勿論、その際に贈り物の菓子は手渡し済みである

 ──コンコン…
荘厳な扉を控えめにラトレイアがノックすると、中からその部屋の主…すなわちダオスの返事がした。
「入ると良い…」
戸外のラトレイアの気配に気付いていたダオスはとても穏やかな声音で入室を彼女に促すと、それに応じるかのように控えめに扉を開け、ラトレイアは室内に歩を進めた。

「失礼します…」
少し遠慮がちに入室しながらも背に手製の焼き菓子を携え、ラトレイアは彼の面前へと進む。

「今宵はどうしたのだ…?」
窓から眺める景色は月明かりで照らされてはいるが徐々に闇の色が濃くなっている。時は甲夜といったところか。

 ダオスに問われラトレイアは、心がざわめくというか…心拍は上がりドキドキとするが、それを悟られまいと平静を装いながら己の背後に持っていた贈り物を彼の前に差し出した。
「あの…その…いつも色々とお気遣いありがとうございます。
お口に合わないかもしれませんが…御菓子を作りましたので…その…」
「ラトレイア…君の手製なのか…?」
しどろもどろになりつつも、平常を装う彼女を可愛らしく思い、ダオスはラトレイアの手から綺麗に包装された包みを受け取った。

「は、はい…!
もし宜しかったら、お召し上がり下さいませ」
甘さは控えてあるのですが…と、ラトレイアは彼の口に合うかどうか不安で一杯なのだろう、少し伏し目がちに顔色を伺った。
「…ありがとう。その心遣い、誠に感謝する。
…今、開けてもよいか?」
ダオスは顔をほころばせそう問いかければラトレイアは同じように解顔し
「…はい!」
受け取ってもらえたのを安堵したかのように表情が和らいだ。

 室内に備え付けのテーブルセットに歩みを進め、ダオスは一対の椅子の片方を引きラトレイアを招き寄せ座らせると、己は彼女の隣に椅子を置き、そこに腰掛ける。
そして、綺麗に包装された包み紙を丁寧に解き、小箱を開ければ其処にあるのは彼女手製の焼き菓子…クグロフ。
少し小振りのクグロフではあるが、食べやすいように切り分けたのちダオスは一切れ口にした。

作る際に、キルシュヴァッサーを加えてあるのだろう。ビターチョコでデコレーションしたそれは大人の味の仕上がりに。

小振りなのは、飽きなく1人で完食出来るようにと配慮されたのだろう。

「…とても美味だ。
ラトレイア、ありがとう」
口当たり良い甘さ、それでいて洋酒が程よく効いていて。

作るのに苦心したのではないだろうか。
彼女はお酒に弱いのだ。

「本当に、感謝する」
ダオスが穏やかな笑みを浮かべ礼を紡げば、ラトレイアは目を輝かせ安堵の表情を浮かべた。
「喜んで頂けて、とても嬉しいです」
よく見てみるとラトレイアの目尻には涙が滲んでいた。

「…泣くな」
「…はい…」
安堵感からか涙を滲ませていたラトレイアを気遣い、ダオスは彼女の面に手を添え、目尻に光る雫を優しく指で拭う。ラトレイアは気持ちを落ち着かせようと目を伏せた。

 その仕草に心惹かれたダオスは彼女の目尻に唇を寄せ、伏せられたために零れ落ちていく、拭い切れていなかった涙を吸い取り、そして──

ラトレイアの唇に自身の唇を優しく重ねた。

「…んっ…」
突然の口付けに驚いたラトレイアが触れるだけのその感触に微かに声を洩らせば、ダオスは程なくしてその唇を離し
「…何も案ずることはないのだ。
だから、泣く必要などない」
──君のその心尽くし、誠に感謝する。

そう告げダオスが優しく頬を撫で上げれば彼女は恥ずかしそうに頬を赤く染めた。

「…君に渡したい物がある」
ラトレイアの顔を見詰め、優艶な笑みを面に浮かべながらダオスは彼女の手を取ると『少しここで待つように』と言い置いて席を立つ。
「え…私に…ですか?」
不思議に思い同じように席を立とうとすれば、「すぐ戻る」と言い彼女を席に戻るように促し、ダオスは何かを取りに隣室へと姿を消した。

 そして、その言葉通りに数分したのち、折り返す。
その手には、シンプルに包装された小さい何かを携えていた。
「?」
不思議そうにラトレイアは小首を傾げていると、ダオスは彼女の隣に座りなおし
「…君にこれを…」
そう告げて、ラトレイアの手に乗せ、己の手を優しく重ねた。
「…私に?
…開けても良いでしょうか?」
思いもよらない事態に戸惑い、ラトレイアは手の中を見、その後ダオスに伺いを立てるように眼差しを向ける。
「勿論」
それに答えるかのように彼が頷けば、『ありがとうございます』とラトレイアは笑み返した。

 包み紙を綺麗に解き、箱をあければ其処にあるのはシンプルながらも存在感のある何か液状の物が収められている小瓶であった。
「これは…?」
綺麗…と小さく呟いた後、中身を図りかねてラトレイアが疑問を口にすれば、ダオスは小瓶の封をあけ手に取ると、己の手首に一吹きかけ軽く手首をこすり合わせる。そして彼女の首元に自身の手首を軽く擦り付けた。
そうすると、仄かに香るは爽やかなグリーンティー。そして、瑞々しい花の薫り。
「…いい香りですね…。なんだか心が落ち着きます」
──ダオス様が纏っている薫りにとても良く似ている…
そう思いながらラトレイアは柔らかな笑みをダオスに向けた。

「君に似合うと思ったのでな。
この香水、受け取ってもらえるだろうか?」
ダオスは憂いを帯びた眼差しで彼女を見詰め、問いかければ。
「…は、はい…あ、あ、ありがとうございます
大切にいたします…!」
その眼差しで見詰められ、どうしてだか自分でも良くわからないが鼓動が早まり、頬が熱くなるのが感じられたラトレイアは精一杯の平静を装いつつも彼の厚意を受け入れた。

 この日以降、この香水は彼女のお気に入りの品となり、愛用するようになっていたのであった。

携帯サイト初出日:2010年2月13日 了
修正:2024年7月1日

■おまけ■

「…片意地張らないで、あんたも香水プレゼントすれば良かったものを…」

 ここは城内にあるダイニングルーム。

 先ほど、バレンタインの贈り物としてラトレイアからそれぞれ菓子を貰ったジャミルとデミテルは示し合わせたわけでもないのに鉢合わせ、お互いの手元を見て彼女からプレゼントを貰ったのを知ると同じ席に腰掛け談笑していた。

「嫌ですよ。
どうせ、貴女のことですから?
彼にも言ったのでしょう?」
ラトレイアが香水を持っていないということを──

「贈り物が被るなんて私は御免です。
それに、ラトレイアが勝手に贈ってくれたのです。私がお返しする義理もないでしょう」
そう言いデミテルは横目でジャミルを眺めた。
「あら、なんだ、分かった?」
あははははと彼女はからかうように笑い声を上げた。
「それは分かりますよ。一体どれだけの年月の付き合いだと思っているんですか」
──全く…。

ため息を1つつくと、デミテルはグラスに注いであったお気に入りのヴォトカを口にした。

おまけ 了。(2010年2月13日)

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