謎の人物に気を静められ。
それからは故郷の悪夢を見る事もなくその晩は比較的穏やかに眠れた美鷺ではあったが、
夜明けが近付いた時刻に、また不思議な夢を見たのだった。
スターヒルから始まり、誰かの倒れるシーン…そしてまた別の誰かの悲痛な祈りにも似た願い。
それは誰かの記憶の一部なのではないだろうか?美鷺は実体を持たない思念状態でそう考えながらも
その発生源を探すべく辺りを浮遊していた。
微かに感じられる謎の気配を頼りに辺りを彷徨い、何処かの寝室と思しき部屋に辿り着く。
実体がない現状では扉はその意味をなさない。美鷺は意識を集中させるとするりと室内へ溶け込んでいった。
そこには豊かな金色の髪を持つ青年が眉根を寄せて眠っていた。
「……この人は…?」
…どことなく、見たことがある様な…。
それがどこであったかまでは美鷺は思い出せない。
だが、目の前にいる、苦しんでいる人物を見て彼女はどうにも放っておけないのだった。
「………。
私の見ている夢に出てくるのは貴方…?」
そう呟きながらも美鷺は実体でそうするかのように、その青年の髪を優しく梳き、手を軽く握る。
―…一体誰なんだろうか。
疑問に思いつつも暫くその人物の様子を見やる。
そのままの状態で一刻程、その人物の手を握りながら寝台のへりに腰掛けていたその時。
不思議なことに、美鷺は思念体の状態で接している筈なのだが目の前の人物に手を握り返されたような気がしたのだった。
「…え?」
美鷺は思わず疑問に思い言葉が漏れ。訝しげに青年の顔を見やる。
すると、うっすらと彼の目が開いた。
二人の視線が合う。
「……」
「……」
ただ不思議そうに見詰め合いお互いに言葉を発する事も出来なかった。
お互いの存在を認識したその刹那、瞬く間に美鷺の姿は掻き消えていく。幻が消えるかのように。
その人物は消えゆく美鷺の姿に何か言いたげな顔をしたが言葉をかける事もかなわず。
思念姿の美鷺はその場から消えていった。
ぱちり、と美鷺は目を開けた。
身を起こせば、そこは聖域にある自分の私室にある寝室。
美鷺は、寝始めたときと何ら変わらず、ベッドに横たわっていた。
「……夢…にしては妙に鮮明ね。
いや、これは夢というより…」
ここで美鷺は一つ溜息をつき。
「…誰かの記憶を垣間見た…?」
聖域に連れて来られてから視るそれ。
回数を重ねるごとに少しずつ明らかになっているような気もする。
だが…つい先ほど遭遇した人物は一体誰なのか。
「…金髪…清楚な面立ち…」
13年前に一度だけ会った少年を彷彿とさせる。
だが、その人物は黄金聖闘士である。
たしか、纏っていた黄金聖衣は双子座…だったような気がする。
「…私、さっきの散策では十二宮は下ってないわよね…」
思念体でゆらゆらと彷徨ったが、十二宮の中腹まで下った記憶はない。
どちらかといえば、教皇の間近郊やスターヒルを通過したのである。
「……。あれは何処なのかしら」
美鷺は首を傾げるばかりだった。
「…ともかく、また出会うことがあるならばそれとなく…」
ぶつぶつと独り言をこぼしながら美鷺は布団の中に戻ろうとする。
そこに良く知った気配が現れた。
「マスター」
先日、日本に送った自身の使い魔であった。
「おかえり。守備は?」
「ジョウジョウデス。
デンゴン、ショウチシタトノコト」
使い魔はそう言い終えると、美鷺の足元にどさどさと荷物を下ろした。
それは、遣いに出した際に頼んだ私服数点であった。
「ありがとう、助かるわ…」
齎された数着を手に取り、さてどこに保管しようかと美鷺は辺りを見回す。
ふと、寝台の下に目線を奪われた。が、どうにも目につきやすいようだ。
不可視空間でも造り出してそこに置いておくか…と思案しながら寝台を覗き込むと、
使い魔が気になる単語を呟いたことに気付き作業の手を美鷺は止めた。
「…親書、ですって?」
「ハイ。センジツイモウトギミニオアイシタサイニ、
マスターガサラワレタソノヒニ、コクサイビンデオクッタトノコト」
どうやら、コロッセオで聖域からの刺客に襲撃されたあの後
星矢たちの活躍により沙織は無事だったようだ。ひと時の安息を得たのち、
エアメールで書簡を送ったようである。
美鷺がコロッセオで沙織と共に襲撃に遭い、彼女を庇って聖域に連れて来られてからまだ2日。
日本からギリシャに届くまでは今暫く時間がかかるであろう。
いや、届いてからも教皇の手に渡り読まれるまでにさらに時間がかかるかもしれない。
「……少なくとも、この一カ月以内に事態は動く…か…」
それまでに聖域内の内偵を済ませておかねばならないわね…
美鷺は遣いを下がらせると寝台に腰掛け、深く溜息をついた。
「…服、仕舞って寝なおそう…」
明日からまたこっそり散策しなくては…とぼそりと呟き寝具に身を包むと眠りについた。
翌朝。
あれから夢を視る事もなくぐっすりと睡眠をとれた美鷺は気持ち晴れやかに目覚めた。
耳に入る鳥のさえずりが心地よい。
手早く身支度を済ませ窓の外をぼんやりと眺めれば朝日が燦々と輝いていた。
──さて、今日は少し足を伸ばして散策の範囲を広げるか否か…
美鷺はぼんやりと思索に耽ると、私室のドアをノックする音が室内に響いた。
「…はい」
美鷺が返事をすれば、木戸がキイ…と音を立てて開かれる。
そこに居たのは教皇であった。
「…おや。今朝はお早いのですね」
マスクで教皇の表情は良く見えないが、窓辺に佇む美鷺を見てどうやらくすくすと笑んでいるようだ。
「…私とて、毎日寝起きが悪いわけではないのよ…?」
彼の仕草に些かムッとした美鷺は、少々不貞腐れながらもぶつぶつと呟いた。
──…昨日は疲れていたのだもの…
長旅の疲れや郷里の悪夢や…色々一気に来たのである。
寝起きに影響を及ぼすのは致し方ないといった所か。
「…これはこれは失礼いたしました。
さ、朝餉が整っておりますゆえ…」
どこか楽しげな教皇に促されるがままに美鷺は私室を後にした。
こうして教皇と共に食事を摂るようになって早3日目。
3日もすればお互いに探り合いながらの食事にも慣れてきたもので、他愛無い会話を挟みつつ粗方食べ終え食後のフルーツを手に取ったところで美鷺は口を開いた。
「……村に出かける…?」
教皇が何気に口にしたその言葉を鸚鵡返しに美鷺は彼に問いかけた。
「左様で御座います。
聖域の傍にロドリオ村という村があるのですが、ご存知でしょうか?」
「……朧げにではあるけども覚えてはいるわ。
降臨の際に時々立ち寄ってはいたから」
確か、人口の少ない小さな村だったと美鷺は記憶している。
「左様で御座いますか…。
私は時折、その村に慰問に赴くのですよ…」
「…今日がその日、というわけね?」
「はい」
食事を終えた彼は口元をナプキンで軽く拭い一呼吸置いたのち、美鷺の問いに答えた。
「ですので、本日は拝謁に伺えないやもしれません」
「…そう」
──…これは、散策のチャンスか、あるいは…罠か…
美鷺は教皇の様子を見ながら、どうしたものかと口を噤んだ。
じっと己を見詰める彼女に気付き、教皇は少々首を傾げると、得心したかのように口を再度開いた。
「…村の様子が気になるようでしたら、拝謁の折に詳細をお伝えいたしますが?」
美鷺の出方を伺うかのように彼は彼女を見据える。
「……そうね。今回はまだ一度も訪れていないし、気になると言えば気になるからお願いしようかしら」
「畏まりました」
恭しく教皇は軽く頭を下げると、何処からか侍従を呼び出し食器を下げさせる。
それを合図に、美鷺は教皇の間を後にし私室へと一旦戻ったのであった。
先ほどの会食で美鷺は一つの嘘を教皇についた。
『今回はまだ一度も訪れていない』というのは偽りである。
聖域に連れ戻されてから一度散策に出た折にロドリオ村に訪れているのだ。
だが、それは教皇にはあずかり知らぬところ。
このことを知っているのは薔薇園で遭遇した美丈夫、アフロディーテとデスマスクである。
まあ、十中八九、聖闘士であろうからもしかしたら迷子を送り届けた、などとして情報は伝わっているかもしれないが。
それ故、美鷺は小さな嘘をついたのであった。
「…さて。罠ではあるかもしれないけれどもここで手をこまねいているわけにもいかないわね…」
美鷺は、教皇の間にいつもある気配が消え、慰問に出かけたのを見計らってから聖域近辺を散策に出かけようと決めたのであった。
陽も高く上り、時刻は午刻を過ぎたころ。
時は来た。というのも、教皇の間にある気配が消えたのである。
美鷺は彼の人が慰問に出かけたのを察した。
「…さて、と」
美鷺は隠していた私服を取り出すと、身に纏っていたキトンを脱ぎスーツに着替え、
窓から颯爽と身を翻し宙を舞い。己の存在を少々時間軸から隔離し、異階層に身を置き聖域周辺を巡っていた。
前回の散策時はひょんな気の緩みから、姿を人目に晒してしまった。
その為今回は自分の姿を見られることの無いよう予防策としての処置であった。
再び精霊たちの元を訪れ、何か思い出したことがないか、変わりはないか等と美鷺は彼等の記憶を辿る。
だが、そうそう変わったことが起こるはずもなく。
この日の収穫は皆無に等しかった。
「…ふう…。そう簡単に事は運ばないわよね」
長期戦も視野に入れるべきか…などと美鷺は長嘆息を一つつく。
「…あまり時間は残されていないけれども…」
沙織は教皇に宛てて親書を出した。それが彼の手元に届くまであと数日。
そこから彼がどう行動を起こすかにもよって残された時間の算出も変わってくる。
何処か得体のしれない雰囲気を持ち、勘の鋭い教皇の事だ。
油断することはまかりならない。
何しろ、彼はアテナを手に掻けようとした人物の筈。
どんな手段を用いてくるか予測がつかない。これから起こるであろう事は此度のアテナ降臨の試練。
だが、近しい未来のヴィジョンが不透明なのも美鷺は腑に落ちない。
何かに妨害されているような…そう、迷路に迷い込んだような…。
「……迷路といえば、何処だかの宮は守護者によって迷宮と化す場所があったわよね…」
アテナに付いて聖域に訪れた際に聞きかじったことがあった美鷺は独り言ちる。
「あれは確か…」
──…双児宮……
「…………」
精霊達の記憶では、現在の双児宮の守護者は不在…とある。
だが、不在の筈なのに時折気配があるとも言っていた。
しかも、宮の守護者が姿を消したという時期も気にかかる。
そう、それは…13年前、アテナ降臨の直後なのだ。
タイミングが良すぎるのである。
「…確証がない事には報告もできないわね」
はー…と、美鷺は再び長嘆息を付いた。
と、その時である。
教皇宮の方から異様な気配を美鷺は感じた。
「……!
もうこんなに時間が経って…?」
教皇の間に見知った気配が戻ったのを察した美鷺は慎重に、私室へ戻ろうとその場を後にしようとした。したのだが…
「…何かしら、この異様な小宇宙は」
教皇の間から少し外れた位置。
そこから気配を感じる。
美鷺が姿を隠しつつその場所へと向かえばそこに在るのは沐浴場。
何やら声が聞こえるがはっきりとは聞き取れない。
しかし、聞き取れる言葉から察するに教皇が拝謁前に身を清めているようだ。
だが、妙にデジャヴを得る言葉が耳に入る。
『正義のために尽くしたい』
この言葉がとても気にかかる。
聖域に来てから視る夢で目にした光景が美鷺の脳裏を過った。
「…?あれは…?」
脱衣所入口の幕の前に控えている男は服装から察するに側近といったところか。
浴場の方からうめき声が聞こえ、彼は慌てて中へと入って行った。
その直後。男の叫びが聞こえた。
従者の気配はそれ以降感じる事はなく。
教皇が脱衣所から出てきたのが見え美鷺は柱の陰に身を隠した。
教皇はそのまま何事もなかったかのように歩みを進めていった。
数分その場に美鷺は留まりながらも、私室に一刻も早く戻るべきか思案していた。
彼はこのまま私室にくるかもしれない。いや、私室よりもアテナ神殿に拝謁に向かう可能性が高い。
今ここに残るのは、私室や神殿から出歩いているのが見破られてしまう恐れがある。
得策とはいい難い。
それでも、美鷺は側近の男の行方が気になって仕方がない。
「……」
美鷺は意を決して、脱衣場の中に足を踏み入れた。
だが、そこに男の姿は無く何の手がかりも残されてはいなかった。
「……妙ね」
男は何処へ行ってしまったのか。尋常ではない叫び声だった。
そういえば、精霊たちは時折、側近であった者たちの遺体を見たと言っていた。
「………。急いで戻らなければ」
美鷺は、静けさを取り戻した脱衣場に背を向けると、慎重にアテナ神殿へと向かっていった。
移転前初出:2015年10月17日
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