鶏鳴の刻。
広々とした教皇の寝室。
寝静まった室内では規則正しい寝息が微かに聞こえていた。
時を同じくして、美鷺はと言えば。
不可思議な事象に直面していたのだった。
「…う………ん………」
──ここは何処…
辺りを見渡せばそこは限りなく広がる暗闇が覆う空間。
地面も空も無い。
ただそこに在るのは闇そのものだった。
その場には上下左右もなく、己の体はただ浮遊しているだけかのような感覚を美鷺は感じたのだった。
はて、これはどうしたことか。
自分は寝台に身を横たえて居た筈なのだが。
これは夢か幻か。
異様なその空間に美鷺は足を着け暫し歩みを進めると、目前にある光景が浮かび上がってきた。
「………夢………とも違うようね」
美鷺はその光景の傍まで足を進めて立ち止まる。
「………?沙織………?
それにあれは………」
日本に居る筈の女神と、それを守る青銅聖闘士。
察する所、どうやら美鷺がコロッセオから連れ去られて以降の女神の身の回りに起きた出来事なのだろう。それらが走馬灯のように彼女の目の前に繰り広げられていく。
そして数回場面が変わった所で美鷺は気付いた。
青銅聖闘士であるその人物が何故だか射手座の黄金聖衣を纏っていたのだ。
意識をそちらに集中させると、彼……星矢の目前には黄金聖闘士が立ちはだかっていた。
「……これは………」
聖衣を見る限り、獅子座……。
辺りを注意深く観察すると、見知った景色が広がっていた。
どうやらそこは、日本にあるグラード財団直轄の病院であるようだ。
「……教皇はわざわざ日本に黄金聖闘士も差し向けていた、という事のようね」
──いよいよもって、教皇も形振り構っていられなくなってきたという所かしら?
日本で起こった、己が不在時点でのアテナの身の回りの出来事をこの異空間で目の当たりにして、
決戦の時は思ったより早く訪れるであろうと美鷺は察知したのだった。
「………あら……」
派遣されたであろう獅子座が何かを確信したのか星矢等から踵を返し、傷をおった女白銀聖闘士を抱えて立ち去る場面が見える。
「………どうやら彼には何故アテナが日本に居るのか伝わったみたいだけれども…」
見たところ彼は直情型のようである。
直接教皇に問い質しにでかねない。彼の身が少々心配になる美鷺であった。
「それにしても…。未来ではなく過去が視れるとはね…」
先のビジョンが一向に透視出来ないのは些か不便ではあるが、致し方あるまい。
今出来る事を成そうと美鷺は思い直し、この異空間をそのまま利用し、使い魔を呼び出し聖域での現状を記した物を持たせて城戸邸へと送ったのだった。
それから数刻が経ったのか、はたまた数秒後なのか。
美鷺は先ほどの空間とは別の場所に出ていた。
今度は地面も天井もある。
ただ己の体の感覚はなく。手先を見ればまたもや薄く透けている。
「………」
何かに呼ばれているのだろうか、等と美鷺は首を傾げながら思案しながら辺りを見渡した。
「…あら」
ここは以前来たことがあるわね…。
美鷺は思念体で散策した日を思い出し、そこで見掛けた青年の事を思い浮かべた。
視線を合わせた直後、何かを伝えたいような雰囲気だったのがとても記憶に残っている。
こちらを不審者として問い質そうという気配にも見えなかったのが印象的だった。
「………」
人が在室している気配はある。
どうしたものかと戸外で思い悩んでいると、美鷺は何故だか名を呼ばれたような気がしたのだった。
不思議に思い辺りを見回してもそこには誰も居ない。
それに、この前思念体で出会った人物は自分の名を知らない筈だ。
「……?」
何故名を呼ばれた気などするのだろう、と美鷺は首を傾げ。
その答えがここにあるのではと思い直し、罠である場合も考え慎重に。偵察するべきか否かと数刻思索した後、意を決して室内に溶け込んでいった。
以前のように室内に入室し、人の気配のある方へ歩みを進めていく。
前回はあまり気に留めなかったが、重厚な机や多くの書物がきっちりと整頓されている書棚等が目に入り、この部屋の主は役職もそれなりにあり、尚且つ几帳面な性格の人物なのだろうなと美鷺は感じた。
数々の書籍に目線を走らせると、そこには天文学等の本も見受けられ。
星読みも出来る人物なのだろうか?とタイトルをまじまじと見詰めながら思案していると、その場から少し離れた位置から声が聞こえ美鷺はそちらに意識を集中させた。
声のした方角へ足を進めるとそこは寝室であった。
美鷺は注意深く気配を探る。
寝台には人が横たわっており、よく見れば胸は規則正しく上下していた。
窓から月明かりが零れ落ち、室内がうっすらと月光に照らされている。
その光を頼りに美鷺は寝台に身を委ねている人物を見やる。
そこに居たのはやはり以前遭遇した金の髪をもつ青年であった。
心なしか、彼の眉間に皺が寄っているように美鷺には見えた。
「………」
美鷺は寝台の縁に腰かけ、どうしたものかと己の顎に手を充て俯仰乃間彼を観察する。
それから暫くした後。彼の口から呻き声のようなものが聞こえた気がして美鷺ははっと息を呑んだ。
よく見ればその端正な面、眉間の皺が更に深くなっている。
それに呼応するかのように彼の息は上がっているように見受けられた。
呼吸もどことなく、先程よりも浅くなりだしどうにも苦しそうである。
──…悪夢でも視ているのだろうか。
美鷺はその苦しむ様がどうにも放ってはおけず、実体のない状態ながらも彼の胸元を優しく
宥めるようにリズムをとりながら撫でた。
──少しでも、安らげますように。
そう祈りを込めて。
どれほどの時間、そうしていたのか。
それはわずかの間かもしれない。しかし、永永無窮に美鷺は彼の胸元を撫でていたように感じた。
時間の概念のない奇妙な感覚に陥りながらも美鷺はぽんぽんと優しく撫でていた。
ふと、彼の目が開いた。
まだ幾分か微睡みの中にいるようにも見えるが、彼は目線を美鷺の方へ向けると
夢でも見ているのだろうか、とでも言いたげな表情を見せ。
「……?」
美鷺はいつの間にか、その手をそっと捕まれていたのだった。
これにはさすがに美鷺も瞠目するほかない。
危害が身に迫るならば、手を振り払うべきかと一瞬躊躇したが、特にそのような気配は無かった。
どうやら彼はほんの僅かの間に熟慮断行し、その上での行動に出たのだろう。
「……何時からこうしていてくれていたのだ…?
いや、問うても仕方のない事か…」
青年はゆっくりと己の上体を起こすと、しっかりと美鷺の手を握り直し。
「前回もそうだったが、此度も君は実体では無いのだね」
彼は悲しげに笑むと
「夢で度々会い見える君はとても深い憂いに苛まれていて…
…まるで…」
我が身を見ているような錯覚を覚えた。
そう、言葉尻を締めくくった。
美鷺はというと、手をしっかりと握られているこの状況、どうしたものかと思い悩んだ。
この青年からは、特に危害を加えてくる気配はない。なので、無下に手を振り払うことも憚られるのであった。
そして、夢で度々逢っていた人物が目の前に居ること、それも聖域内であることに美鷺は興味を覚え。
この人物について何か情報は無いものだろうか、と美鷺はこっそりと彼の様子を観察し始めた。
「……貴方は……だ…」
美鷺が目の前の人物に名を尋ねようとすると、彼女の口許に人差し指をそっと充て、彼は首を横に2度振り。直に分かる……とあとに続く言葉を遮った。
「……。夢での君はいつも何かと戦っている。
その戦いぶりを見るに、戦そのものを憎んでいるようにも見えるが…」
……もし、答えにくいようであれば何も話さなくて良い、と前置きしつつ彼は美鷺の口元から指を離すと言葉を続ける。
「この聖域の現状も苦痛なのではないか?
だが、安心して欲しい……直に問題は解決に向かうだろう」
そう言い、彼女の手を優しく握り直し力付けるかのように微笑んだ。
その仕草に美鷺は首をかしげる。
「それはどういう意味…なのかしら」
問題の解決。それは女神と聖域の対立。
13年前の一件から始まったこの状況が変わる…といった所か?と美鷺は口に出さずに思案する。
反面、彼は悲しげに目を伏せ、暫くのち意を決したように瞼を開き彼女と視線を交わし
「……。私の名はまだ明かせない故に、信じて欲しいなどと言える立場では無いのは重々承知している。
だが、これだけは伝えたかった……。私は君の理解者でありたい」
嘘偽りのない真の気持ちだ、と言わんばかりの表情で言葉を終えた。
「………。」
確かに、彼はいつも夢の中で、悪夢に絶望して嘆く自分を慰めてくれた。どういった理由があるにせよ、普通であれば関わろうなどと思わない状態の自分を落ち着かせてくれたのは間違いない。
美鷺は数分、目の前の人物の眼を見つめ返す。その視線に彼は怯むことなく見つめ返してきた。
静かに時は流れ。
「………。分かりました。
その言葉は信じましょう」
暫く思案したのち、美鷺は返事を返した。
その返答に彼は優しく手を握り返し「ありがとう…」と穏やかに笑んだ。
窓の外を見やれば、漆黒だった夜空が次第に青じらんで行く。日の出の時刻が近付いているようだった。
「……。直に夜が明ける。
もう、部屋に戻りなさい」
そう言うと彼は美鷺の手の甲に口付け、名残惜しそうに手を離した。
それを合図に、美鷺の思念体は薄らいでいき……。
パチリと目を覚ませば、美鷺に宛がわれていた私室、その寝室にあるベッドに彼女は横たわっていた。
「…………夢…では無いわね…」
モゾモゾと起き上がり、その場に座ったまま美鷺はおでこに手を充て思案する。
彼の名前を聞き出すことは出来なかったが、それなりに収穫はあった。
何故お互いに夢で出会うのか、は…また出会った時に問うてみよう。
美鷺はそう思い直しベッドの縁に身を預けた。
───決戦の時は近い…
移転前初出:2017年4月5日
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