教皇よりも先に私室に戻り、手早く着替えを済ませるとそのままアテナ神殿に向かう。
神殿に辿り着いた美鷺は息を整え小宇宙を落ち着かせた。
巨大なアテナ神像の台座に腰掛け、美鷺はぼんやりと空を眺めながら先の異様な小宇宙について思いを馳せる。
側近の男は一体何処へと消えてしまったのか。
「……」
精霊達なら何か知っているかもしれない。
明日、教皇宮近辺に棲む者に尋ねてみるとしようか…などと思案していると、階段を上ってくる教皇の姿が見えた。何処となく小宇宙が揺らいでいるように思えるのは気のせいだろうか。
美鷺は近付いてくる教皇をぼんやりと眺めながらも、彼の動向を観察していた。
「……こちらにおいででしたか…」
アテナ神像の足元まで辿り着いた教皇は、心なしか息を切らしているように見える。
美鷺が像の台座に座っている為、彼は珍しく彼女を見上げる体勢になっていた。
「私室の方に伺いましたら不在でした故、少々心配いたしましたぞ…?」
「あら、それは悪かったわね。部屋に籠っていても仕方がないし
神殿でこうして、のんびりと過ごさせていただいていたわ?」
美鷺は事も無げにそう言葉を返すと台座からひらりと舞い降り、長い髪を緩やかに靡かせながら教皇の傍に難なく着地する。
その仕草はまるでスローモーションのようにゆっくりとした動作だった。
通常であれば重力により落下速度は速いはず。だのに、彼女が身に纏うキトンの裾はふわりと舞った程度。
教皇はその光景を目の当たりにし、己の疑問を解消すべく行動に出たのだった。
「……おお…。あのような高い場所に良くお上りになりましたな」
まさかよじ登ったのでは…?などと冗談めかして彼は美鷺に問うた。
「ミサギ殿は少々お転婆のようだ…」
そう言うと教皇はマスクの下で、実に愉快そうにくすくすと笑う。
「……。忍び笑いのつもり?笑い声が聞こえるわよ…」
美鷺はわざと彼を挑発する。そしてそのままそれに便乗し
「…馬鹿となんとかは高いところが好き、とでも言いたいのかしら?
…なんて、冗談よ」
反抗心をそれとなく表すと美鷺は、ひょい、とマスクの中を覗き込もうとおどけてみせた。
さすがは教皇といった所か。
美鷺のその仕草に臆する事もなく毅然とした佇まいで彼女を眺めていた。
あいも変わらず、マスクによってその表情はようとして窺えない。
「いえ、そのような事は…」
滅相もない、とでも言いたげに彼女の反応を見て楽しんでいるようだった。
「ただ、そのようにか細い腕で上るとは思えません故…」
そう言い彼は美鷺の手を取り、どうやって登ったのかと不思議そうに彼女と台座を交互に眺める。
「…人ならざるものだからこんな事は序の口よ…」
美鷺は誰ともなしにぽそりと呟くとさらりと彼の手をかわした。
「…は?」
教皇は彼女の独り言がよく聞き取れなかったらしく、鸚鵡返しのように疑問符を投げかける。
それに気づいた美鷺は、なんでもない、と背をそむけた。
その背中が、どこか物寂しそうに教皇には見えたのだった。
「…!?」
美鷺はいつの間にか教皇の腕の中にすっぽりと収まっていた。
一体何事かと美鷺は思案するも、一向にこの状況の理由が見当たらない。
先程までの会話の流れでどうしてこうなったのか。美鷺は現状を打破するために動こうとするも、
さすがに体格差はどうにもならない。しかも、背後をとられている状態だ。
体の自由など無いも同然だ。
だが、そんな状況ではあったが美鷺は気になる点を見つけたのだった。
心なしか、教皇の小宇宙が再び、微弱ではあるが揺らいでいるように思えたのだ。
──…具合でも悪いのだろうか。
美鷺は、腕力の差は致し方ないと判断し、どうにか事態を変えるべく口火を切った。
「……教皇、なにか…?」
顔色を探ろうにも問題の人物は背後にいるためそれも適わない。
「……具合でも悪いの?」
謁見は切り上げて休息でも取った方が良いのでは?と問いかけ。教皇の顔を見ようと美鷺は身じろぐ。なんとか、彼を見上げる体勢がとれた。
相変わらず、マスクにより素顔を見る事はかなわなかったが面と向かって対峙してみれば。
やはり呼吸が浅いようだ。教皇は息が荒くなるとともに小宇宙が再び揺らぎ始めていた。
──…これは何やら秘密がありそうね。
美鷺はそう直感すると、身の危険を顧みず、あえて教皇の背に手を回す。
「…無理は禁物よ。聖域を統括する貴方が倒れてしまったら大変だわ」
そう言い美鷺は彼の背をさする。
すると、いくら問いかけても反応のなかった教皇がここで漸く口を開いたのだった。
「…いえ。ご心配には及びません」
「…本当に?」
心配はいらないという彼だったが、やはり未だに息が荒かった。
「ご無礼を失礼いたしました…。私は…」
何かを言いかけた教皇だったがその言葉の続きを口にすることは無かった。
「………。そう。でも、念のため今日はもう執務も切り上げて休みなさい。
これは、女神の守護者としての命令よ」
漸く彼の腕から解放された美鷺は、「ここに戻って日も浅い守護者に言われたくはないだろうけどもね」と付け加えると再び彼に背を向けた。
「…仰せのままに」
教皇は彼女のその仕草に苦笑を漏らすと、そんな美鷺の手を再び取り。
「もう日も落ち始め辺りは薄暗くなります故。
ミサギ殿も私室に戻られた方が良いでしょう」
そう言った彼はいつものそれに戻っていた。
「……それもそうね」
美鷺は彼の提案を受け入れ、その手を握り返すとアテナ神殿から教皇の間へ続く階段を下って行った。
神殿を辞する二人の姿を見ていたのは神像だけではなかった。
同刻。偶然にも、二人が神殿から出てくるところを見ていた者が居たのである。
「…おや、あれは…」
「…あ?なんだあ?」
服装は違えども、薔薇園でいつぞや見かけた女性ではないか、とその人物たちは教皇宮から神殿に至る通路で立ち止まった。
──ただの旅行者ではなかった、というわけか…。
アフロディーテは、教皇が恭しく彼女に接しているところを遠目に見て、どうやら彼女が、
最近連れて来られた問題の人物だったのだろうと察し。
自分と同じく、教皇の勅命帰りに報告を兼ねて教皇宮に訪れたデスマスクに目配せする。
アフロディーテは教皇に気付かれないように物陰に隠れ二人をやり過ごすことにしたのだった。
もっとも、気配と小宇宙を絶ったところであの教皇の事だ。
自分達の存在に気付いているやも知れぬが。
アフロディーテは肩をすくめ、教皇に用があって赴いたはいいが、なんと間の悪いところに出くわしてしまったのやら…と苦笑を漏らしたのだった。
「…仕方がない、出直すとしよう」
「あ?なんでだよ。別に構うこたねえだろ…。
いつまた顔会せるとは限らねえんだ。
今、互いにちゃんと名乗っておいて損はねえと思うがな」
こちら側に引き込んでおくいいチャンスだと思うがな、とデスマスクは本音を漏らす。
だが、アフロディーテはそれを制した。
「…君は馬鹿かい?」
「なんだと?」
「…あの教皇の様子を見て気付かないほど君も耄碌していないだろう?」
今邪魔するのは無粋だよ、とアフロディーテは同僚に釘を刺す。
「…あー…。そういや珍しく機嫌が良さそうだったな」
邪魔をして機嫌を損ねたら面倒な事になる。勅命の報告どころではない。
無理難題を吹っ掛けられそうだ。デスマスクはそう独り言ちた。
渦中の二人が去り、その場に静寂が訪れるとアフロディーテとデスマスクは気配と小宇宙を絶ったまま自宮へと戻って行ったのだった。
その晩。
教皇は、なぜ美鷺を腕に抱きとめてしまったのかと、自分自身がとった行動に対し思い悩んだ。
「…あの背が寂しそうに見えたなど…」
教皇は己の寝室でそう独り言ちると、どうかしていると自分を諌めるかのように頭を振り寝台にドカリと腰を据えた。
そもそも彼女は女神の守護者。
聖域に残されている文献の中には、教皇のみが閲覧可能の物もある。だが、その文献にさえ、極秘事項なのか守護者に関しての詳細は記載されていない。
美鷺がどことなく浮世離れしているように感じるのはその為だろう。
それを薄寂しく見えたなど。
「……フン。小娘が…」
一体何を考えている。
何故こうも私の思考を掻き乱すのだ。
度々見せる、その仕草は一体何なのだ。
何処か物憂げで。しかし次の瞬間にはおどけて見せたりする。
果ては、臆する事もなくこのマスクの中を覗き込もうとする。
「…全くもって忌々しい事よ…」
教皇はその仮面を徐に外し、黒髪を顕わにすると溜め息を一つ吐いた。
会食中も、笑顔は見せているが美鷺の心情は計り知れない。
数日前にアフロディーテが薔薇園で見たという者も十中八九彼女だろう。
あのような聖域の外れで姿を見せるなど。大方、私の正体を探っているのであろう。
だが、残念だったな。
「…そう易々と私は小娘の思い通りに等なったりはせぬ」
ククク…と教皇は不敵な笑みを浮かべた。
嘗ての一件から13年の月日が流れた。
その間の聖域は意のままに…とまでは言い難いが、深謀遠慮を巡らせここまで来たのだ。
この局面さえ乗り越えればあとは活殺自在。
幸いなことに私は人心収攬術は心得ている。
いざとなれば、獅子相手の時のようにあの拳を見舞うまでの事。
最早誰にも邪魔はさせぬ。
そう…。事あるごとに私の行動に歯止めをかけるあやつにも。
女神にも。
「…せいぜい足掻くことだな小娘。
この私がアテナに代わり地上を治めるその暁には…」
意味ありげに目を細め、再び微かに笑声を上げるとそのまま寝具に身を包み眠りについたのだった。
移転前初出:2016年1月10日
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