湯煙

「たまにはお湯につかりたい…」
湊はそろそろ水浴びとサウナのような入浴ではなく、ゆったりとした湯船で寛ぎたいと思っていた。
生憎と、シャンプーなどは持ってきてはいないが石鹸は小さいながらも荷物の中に持参していた湊は髪も洗いたいと己の茶髪をひと房手に取り溜息をつく。
何処かに温泉など無いものだろうか?
湊は試しに神楽に尋ねてみる事にした。

「ねえ、神楽」
神楽を探して城内をのんびり歩き、目的の人物を見つけると湊は声を掛ける。
対して神楽は湊に気付くと
「なんだ、アンタかい」
何か用か?と廊下の壁に寄りかかりながら湊の呼びかけに答えた。
「突然で悪いけど、何処かに温泉ってないかな?」
「温泉だあ?なんでまた急に」
湊の問いかけに神楽は鸚鵡返しに聞き返す。
「たまには湯船でのんびりくつろぎたいなって思って。
何処かにないかな?」
湊は尚も食い下がり神楽に尋ねる。神楽は「仕方ねえな…」と呟くと何処で見たか思い返す。
「近場では湯治に適した場所を見かけた事はねえな。
ちょっと遠出した先にならあるぜ?」
「行きたい!」
神楽の答えに湊は秒で反応した。
「…奈落の許可が取れるとも思えねえけどな…」
神楽がぼそりと呟くと湊はすぐさま行動に起こし、奈落の元へと向かっていた。

「奈落…!」
「……」
湊は目的の場所に辿り着くと勢いよく引き戸を開け入室し呼びかける。
対して奈落は冷ややかに湊を見やった。
「…なんだ…」
神楽は室外で二人の様子を伺っている。
「たまには湯船につかってのんびりしたいから湯治場に行っていい?」
場所は神楽が知ってるって。神楽に連れて行ってもらおうかと思うんだけど、と湊は単刀直入に切り出した。
「……」
「もし何なら奈落もお湯につかる?」
気持ちいいよ?と湊は奈落の真向かいに座った。
「わしは行かぬ…」
好きにしろ、と奈落は湊に伝えると室外に控えていた神楽に彼女をその場へ連れて行けと命じた。
これには神楽も驚いた。奈落があっさりと外出許可を出したからだ。
「分かったよ。湊、さっさと準備しな」
連れてってやるよと神楽は溜息を一つ吐いて湊を促す。
湊は奈落に「行ってきます」と上機嫌で告げると神楽の後に着いて行った。

「…ここ?」
「ああ、そうだ」
暫く空を駆け、町からだいぶ離れた所。山奥の一角にそれはあった。
簡易的ではあるが衝立があり、小屋もあるが誰も居ない。
見たところ、旅人が稀に訪れて疲れを癒すような、そういった場所の様である。
「秘湯っぽいのかな…」
湯煙を見て湊はうきうきとしながら支度をしようと小屋へ入る。
「神楽は温泉に入らないの?」
暫く待っても一向に小屋に入ってこない神楽を不思議に思い問いかける。
「あたしは必要ないからいい。
しばらくしたら迎えに来るからゆっくり入ってるんだな」
じゃあな、というと神楽は空に戻って行った。
「ええー…一人で…?」
湊はあっという間に空に消えていった神楽を見送ると、山奥だし何か動物とか来たらどうしようと思いつつも、念願の温かい湯船に浸かれるのもあっていそいそと支度を済ませると掛け湯をし体を念入りに洗うとゆっくりと湯船に浸かった。
「ふう…やっぱりお湯は気持ちいいなあ…」
湊は胸まで浸かるとのんびりと夜空を眺める。
この時代は電灯もない。月明かりが頼りであるためか、夜空は殊の外綺麗であった。
近くに人家もない山奥であるがゆえに尚更綺麗に見えた。

 暫く湯につかりながらぼーっと空を眺めていると、茂みがガサガサと動くのに湊は気付く。
──…まずい、小動物ならいいけど熊とかだったらどうしよう
武器になる様なものは手元に何もない。
投げつけるようなものと言えば、桶くらいしかなかった。
ガサリガサガサ、どんどん物音は近くなってきていた。
ええい、ままよ…!と湊は風呂桶をつかみ息をのむ。そんな時だった。
「…ああ!湯気がある!本当に温泉?」
湊にとって聞き覚えのある声がしたのは。
「この声は…」
湊が桶を構えるのを躊躇したその時、更に声が聞こえた。
「だから言っただろ?オレの鼻は確かなんでい!」
──…んん?
この、江戸っ子っぽいような喋り口調…一度聞いたことがあるな、と湊は思い返す。
確か犬耳少年ではなかったか?少年…つまりは男の子。
「まずい」
非常に拙い。いくら手ぬぐいで体を隠しているとはいえ自分は今裸である。
ガサリ。無情にも茂みを掻き分けそこから現れたのは…
「やったー!温泉だあ…って、湊ちゃん?!」
「かごめちゃん…」
偶然の再会にかごめは驚き、湊もまた入浴中であったためバツが悪そうに答えた。
「なんでい、先客か?」
「!!?」
かごめが固まっているのを不思議に思ったのか、彼女の後ろから人の気配がした。
湊は咄嗟に桶をきつく握りしめる。
「犬夜叉、おすわりーっ!」
「ぐえっ」
かごめはすぐさま叫んだ。するとその声に呼応して犬夜叉は地面に突っ伏していた。
「…どうやら先客が居たようですな」
「そのようだね」
女性のようだから法師様と犬夜叉は離れてて、とまた別の声がした。
「かごめちゃんも温泉に浸かりに?」
「そう、久々にお風呂に入りたくなって」
「分かる、この時代水浴びくらいしかないもんね…」
かごめちゃんも一緒に入る?と湊が提案すればかごめは表情を明るくし。
「シャンプーとか持ってるけど湊ちゃん使う?」
珊瑚ちゃんも入ろう?とかごめは連れの女性に声を掛ける。
「ありがとう、遠慮なく使わさせてもらうよ」
湊はシャンプーを借り早速泡立てた。
「…あんたは確か…」
珊瑚と呼ばれた女性は湊を見ると、以前遭遇した時を思い出す。
「私は橘湊。宜しくね」
「あ、ああ…」
普通に自己紹介してくる湊に毒気を抜かれた珊瑚は、かごめがそれぞれを紹介するのを黙って聞いた。
「湊ちゃんはどうやってここに?」
かごめが不思議そうに湊に尋ねると、湊は泡を洗い落とし湯船に戻りつつ
「神楽に連れてきてもらってね?一人でのんびり浸かってたとこ」
事も無げに答えると珊瑚が俄かに気色ばんだ。それに気付いた湊は続けて
「あ、大丈夫大丈夫、本当に今奈落も神楽もいないから」
温泉でのんびりしてる時は休戦しよ?と提案した。
「休戦って…」
かごめが苦笑していると湊はさらに続けて
「詳しい経緯は聞いてないけど、奈落と敵対してるんでしょ?」
とかごめに質問を投げかけた。
それに対しかごめはうん、とだけ答える。それを見て湊は「だから、今は休戦」と微笑んだ。
「…ねえ、湊ちゃん」
「うん?」
「…本当に、奈落の元に居るの?」
かごめは湯船に浸かりながらのんびりしている湊を眺め単刀直入に問うた。
それに対し湊はあっけらかんとした素振りで返答する。
「居るよー?」
ご飯もくれるし着るものもくれるし、恩義あるんだよねと湊は照れ笑いした。
「湊ちゃんは、現代に帰れるとしたら帰りたい?」
「…うーん、そりゃあ…。でも今更戻っても行方不明扱いで職もなさそうだし…
それに、帰るにしても受けた恩は返したいし?」
恩返しできるまでは帰らないつもり、と湊は笑んだ。
その答えを聞いてかごめはそっかと呟くとそれきりその話題に触れる事は無かった。
暫く三人でお湯を楽しんだ後
「そろそろあがろっか?」
湊は徐に立ち上がり替えの手ぬぐいで体を拭くと小屋に入り着物を着付け始めた。
かごめと珊瑚もそれに倣う。
すっかり支度が整った頃、小屋の近くで風が巻き起こったかと思えば神楽がやってきていた。
「迎えが来たみたい」
じゃあ、またね?と湊はかごめに手を振ると小屋を出て神楽の元へと向かった。
「お待たせ」
湊は神楽の手を取ると羽船に乗りこみ湯治場を後にした。
帰路の道すがら。
「なんだい、やけに機嫌がいいじゃないか」
神楽はそんなに湯が良かったのかと思い湊に声を掛ければ湊はまあね、と答え。
「温泉はいいねえ」
また入りに来たいな、と湊はぽそりと呟いたが風に遮られてその言葉は神楽には届かなかった。

「ただいま!」
奈落の元に帰った湊は帰還の報告をしに部屋に向かう。と、当の奈落は神無と共に鏡を見ていた。
「……」
神無、もういい下がれと奈落は告げると神無はすっと部屋から立ち去り、部屋には湊と奈落の二人だけになった。
「……」
「……?」
なんだろうこの居た堪れない空気は?と湊は首を傾げると
「…今度は奈落も行く?」
おずおずと奈落に尋ねた。
「…わしは必要ない」
犬夜叉たちとかち合うくらいならな、と奈落は呟く。
「!?」
湊は何故それを知っているのかと目を白黒させる。
「み、見てたの?」
「…さて、な…」
くくくと奈落は笑むと徐に湊の元へと足を進める。そこに湊はくしゃみを一つ溢した。
「うー、湯冷めでもしたかな…」
へっくし!と再びくしゃみをする。
「……」
奈落は狒々皮を脱ぐと、湊にぼふりと被せ
「これでも纏っていろ」
貴様には役に立ってもらわねばならんからなと呟いた。
「…ありがとう奈落」
湊は遠慮なく狒々皮に身を包むと「あたたかい」と満面の笑みを浮かべた。

 湊が彼女の部屋に戻って行ったあと。
奈落は一人己の部屋でどう湊を利用しようかと暗中模索していた。
そこでふと、自分は何故寒そうにする湊に狒々皮を貸し与えてしまったのかと物思いに耽る。
かごめと鉢合わせになったのは鏡で見ていた。彼女の姿を犬夜叉に見られていないのは不幸中の幸いか。だがしかし自分が居ないところでかちあっていたことが奈落にとっては気にくわない。
何故気にくわないのか奈落には腑に落ちなくて仕方がないのであった。

移転前初出:2017年11月12日

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